2013年9月24日火曜日

ミン・ウォン「私のなかの私」 @ 資生堂ギャラリー レビュー



ミン・ウォン「私のなかの私」
@ 資生堂ギャラリー
2013年9月10日


ドイツ・ベルリン在住のシンガポール人アーティスト、ミン・ウォン(Ming Wong)の個展
(会期:2013年7月6日(土)から9月22日(日)まで)を見てきた。

以下資生堂ギャラリー解説から
http://group.shiseido.co.jp/gallery/exhibition/past/past2013_03.html

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1971年、シンガポール生まれのミン・ウォンは、現在、ドイツ・ベルリンを拠点に活動しています。彼は象徴的なワールド・シネマの傑作に、リメイクという手法を通じて自ら入り込み、語り口や脚本、演出技法に新しい解釈を加えることで、オリジナルの映画との差異を際出たせ、人種的・文化的アイデンティティー、ジェンダー、言語、ナショナリティーといった問題に言及したユニークな映像作品を制作しています。
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彼の作品は、東京都現代美術館でパゾリーニ「テオレマ」を自身が演じる事により再制作する作品を見たのが初めてだった。この元となる「テオレマ」では、5人の大きく異なるキャラクターが登場する。そのため、それらの役を一人が演じ直すことで、その差が明確になり、作品としては楽しみやすいものとなっていた。その作品については、普段辛口の周りの友人たちが、割と好意的にこの作品を論じていたので印象に残っているが、個人的にはあまり好きな作品ではなかった。
シンディー・シャーマンから始まるシュミレーショニズムの文脈で、アジア人男性が西洋人(男性・女性共に)に成りきることで、ナショナリズム、ジェンダーなどの規範、偏見が強くあぶり出されるという手法は、その先駆者である森村泰昌との差があまり見えなかったし、そのシュミレーショニズムという手法自体が、定番化した現代美術的なメソッドとして成立してしまっているように思える。そこではシュミレーショニズムの「模倣することにより、システムに介入し、システムを転覆させる」という本質的な要素は後退し、模倣すること自体が目的になっているように思える。森村との比較であるならば、彼が近年に行っている政治的な言説を映画や歴史的な事件の模倣により再表象する作品、チャップリンの「独裁者」や三嶋由紀夫の市ヶ谷での演説、レーニンの演説などを模倣する作品の方が、彼のアーティストとしての主張を模倣することを通じて、具現化しようとしている所に共感が持てる。
次回の資生堂ギャラリー展示が森村泰昌のベラスケスの作品「ラスメニーナス」をテーマにした新作の展示であることを見ると、企画側ではこの二人の間にある差異と連続性を見出しているのだろう。それは次回の森村泰昌の展示を見ると分かるのだと思う。

さて、今回のミン・ウォンの展示作品についてであるが、日本をテーマに作品制作が行われている。日本映画を3つ、時代劇、現代劇、アニメーションと分類し、その3つのテーマごとに、役を演じるというもの。1つのテーマ、例えば現代劇では、小津安二郎「東京物語」、「麦秋」、成瀬巳喜男「妻として女として」の断片が混ざり合って進行する。時代劇では「雪之丞変化」ほか、現代劇は、アニメは「新世紀エヴァンゲリオン」である。
ミンは映像に現れるほとんどの人物を演じる。例えば、2人が同時に出る時はクロマキー合成をつかって、二人を作者一人が同時に演じるということになる。
展示空間には3面のスクリーンがあり、正面のスクリーンではその合成された作者が演じる映画の映像が投影される。左右のスクリーンでは、その制作風景、クロマキー合成用にグリーンバックで撮影される所やメイクの様子などが映し出されて、正面のスクリーンが合成された映像であることを明らかにする。

今回の作品も手法は明確であり、結果も明確である。登場人物はミンがなり替わり、セリフもミンが日本語で発話する。ただ僕には、この手法を忠実に守って作った、作品がまったく面白くない。方法と結果としての作品が、明快につながっているということが、現代美術における評価の大きなポイントなのだろうが、私にとってはその明快さは、作品として予定調和のように思え、全く面白味が感じられない。この作品で行われる、いわゆる舞台裏を同時に見せるということも現代美術の常套手段だ。
もちろん、このシュミレーショニズムという手法によって現れる違和感により、見えてこなかった民族性や文化性などが強く感じられるというのはある。特に今回の作品では、演じているミンがアジア人であり、日本人と外見的には変わらないのに感じられる違和感は、逆に私たちには当たり前になっている日本文化の特異性を大きく意識させる。

ミンの作品の本質はこの違和感にあると思うのだが、本人がインタビューで語っているように、その違和感は彼自身がシンガポール人として生きるにあたって常に抱いてきた感覚にあるのだろう。シンガポールという民族性によってではなく、商業的な機能の為に成立した国家に生まれた国民は、自分たちの文化を、日本人が自らの文化的特徴を単一的に日本的として主張するようにはできない。ミンは、アーティストとしてそのアイデンティティを自覚する時、それが人格の欠如というネガティブなものではなく、その多重人格的なものとしてポジティブに受け入れるのだろう。そして、単一ではないアイデンティティが自覚され、逆にアイデンティティとはそもそも多重であるという主張になる。さらに彼はゲイであり、同時にジェンダーという面からも、性の多様性を主張する。

ミンの作品の主題はこのように解釈できるように思える。
その主張、そしてそれを表現する手段の正当性も理解している。だが、それでも僕は、彼の作品をまったく好きにはなれない。むしろ苛立ちを感じるのだ。彼の作品のコミカルさも、シニカルさも共に苛立つのだ。それはきっと、僕が芸術というものに対して抱く期待と理想と現代美術というものの現状とのギャップに対する苛立ちなのだ。

僕は森村泰昌を特に高く評価しているわけではないが、近年の彼の作品は、模倣すること自体が目的ではなく、模倣を通じて、歴史を再び思考すべき対象として提示しようとしているように思える。そこが彼とコスプレイヤーとの差異であって、コスプレがフィクションへの現状からの逃避なのに対し、森村は過去の歴史の模倣を通じて、現実の世界へ帰還しようとする。


それを前提にミンの作品を考えると、彼の作品は森村と同様に、社会的風習やそれを表出す映画を模倣することにより、違和感を生み出し、現実の世界を批判的に向き合うことを求めている。
さらに彼の作品は、コスプレイヤーのように、模倣すること自体を意図的に目的にしているように見せる事により、逆に主張を表立ってではなく効果的に違和感としてかもし出すことに成功しているようにも思える。
だが、僕には森村の近年の作品には好感を持て、ミンの作品には苛立ちを感じる。果たしてこの差は何なのだろうか??

森村が日本人で、彼がシンガポール人で、僕が日本人だから、森村の方に好感がもてるのか。そんな単純なナショナリズムと人種差別意識を自分の中で探っていると、森村とミンとのナショナリズムというものの差があるように思えてきた。
ミンはシンガポールのマルチカルチャーな状況の中で、その多様性を「肯定」する。森村は日本のモノカルチャーな状況の中で、その単一性を「否定」する。

状況、そして自分自身への肯定と否定。この単純な対立が、僕が現代美術に期待していることを説明しているのかもしれない。現代美術の作品は、自分自身の理解を超えた作品をつくることを目的とはせず、また自分自身を超えた自分自身を向き合うことを目的としない。その作品は、作家と観客がお互いが理解できる範囲で、ルールで行われるゲームだ。だが、芸術とはあえて古臭く言うならば、ルールを破壊することではないか。未だ理解できない価値を、理解できない自分自身を追求することではないのか。
ミンの作品は、すでにルールがあって、それを破らない事が暗黙の了解であることによって楽しむことが保証される、安全なエンターテイメントだ。それは作品の素材として扱う映画やテーマによるのではなく、彼が芸術に求めているものにより、すなわち自己肯定により、作品がエンターテイメントになる。
そして、僕にはそこに自己肯定とその自己に結びついた国家への肯定、ナショナリズム的心情を見る。シンガポールという国への、その国家と結びついた自己への肯定を。

今回の作品を通じて、僕にとって芸術とは何かを改めて考え直す機会になった。(実はいつでもそうなのだけど、特に現代美術の展示を見ると憤りを含めて考える。。)芸術とは、現状の、現在の自分自身に対する否定であり、それだからこそ、未来への希望なのである。僕はまだ見た事がないものを見たい。芸術は未知の世界の為に、未知の世界の表現として、存在すべきなのだ。


2013年9月24日
西山 修平

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