2014年1月24日金曜日

さわひらき"Under the Box, Beyond the Bounds" レビュー:「映像の時間 - 美術の時間 」 @東京オペラシティ


さわひらき
東京オペラシティ アートギャラリー
2014年1月18日[土]−3月30日
http://www.operacity.jp/ag/exh160/


さわひらきはロンドン在住の映像作家。室内を飛行機が飛ぶ映像作品など、現実にはありえない光景にもかかわらずなぜか親しみを感じさせる(HPから引用)作品で人気。今回は初の美術館での個展。

展示全体を通じ、映像作品が並んでいるが、サウンドはほとんどない。静かで、ゆっくりとした、色の淡い映像がつづく。作品の特徴としては、映像作品の始まりと終わりがない、つまり時間軸がないということがある。観客はいつ見始めても、止めてもよく、もしくはいつまでも見続けてもよいだろう。ある状態が終わりなくに続いていくような感覚は、夢を見ている感覚と比較できるのだろうか。

だが、さわの作品は、本来の夢がもつ不可解さや性的さと比較すると、あまりに理解可能で静的である。別に彼の作品が夢の映像化をテーマにしているのではないのだが、この夢のようなと言われる作品が、本来の夢とはちがう「夢的」なものであることはまず明確にしたい。

彼の作品の夢的な性質は、大きく2つの要素により作られているように思える。
1つは、未来派やシュールレアリズムに似たイメージの使用がある。20世紀初めに活躍した未来派が見た機械と身体の融合の夢。それはある種の素朴さをもって、懐かしいかつての夢を思い起こさせる。またシュールレアリストが追求した深層心理の世界、非論理的なイメージの組み合わせ、特に初期サイレント映画に似たイメージの使用により、記号的に彼の作品は懐かしい「夢的」な外見を得ている。

2つめは、映像というメディアの使用方法である。映像は時間芸術なので、必然的に時間軸を持つ。だが彼の映像作品の多くは、ストーリーはなく、イメージが繰り返すか反復するかにより、時間軸を持たない。映像自体は静止しているのではなく常に変化しながらも、何も展開しない。そこでは、時間が進ます、常にその時間、現在のままである。

古典的な美術と映像作品の鑑賞の違いは、時間の違いである。絵画や彫刻などは、見る時間を観客が決められるのに対し、映像作品は一定の時間を拘束される。より新しい芸術である写真も、観賞の時間は古典的な美術と同じである。映像作品の時間は、同じ時間芸術である音楽や演劇と近いだろう。だが、問題は映像は劇場ではなく、美術館やギャラリーで芸術作品として観賞されるということである。特に、現代は映像を用いた美術作品が非常に多いが、この単純な時間の違いに対する認識が未だ明確にされていないと思う。それは、映像の本質を理解せずに、目新しさだけで作品に映像を取り込もうとする浅はかさの裏返しであると言えるだろう。

さわひろきの作品は、この観賞の時間という観点からは、美術の時間で映像を観賞することを可能にしている作家だと思う。彼の作品は、いつ見始めてもいいし、全部見なくてもいい。見る時間は観客が決める事ができるのである。
その意味で、彼の作品は観客に開かれた作品であると言えるだろう。それは、メディアアートがインタラクティブに、観客と作品との間に双方向性を持たせようとした方法とは違う方法で、映像作品に対して観客が対話をする環境を用意している。

映像が美術化することが、必ずしも映像の本質、映像が持つ力を失うということではない。だが作品と観客との対話は、作品の汲みきれない深さをもってこそ、成立するものである。ただ開かれていたからといっても、そこに観客を引き込む魅力が当然必要である。
私にとって、さわの作品全般は開かれていても、私が時間を忘れるほどに入りこむ魅力を感じなかった。それは彼の映像が、前述のようにあまりに分かりやすい記号的な「夢」のようなものに思えたからだ。だが展示後半にある『Envelop』という作品には関心を持った。
『Envelop』は、縦長に設置された大型スクリーンに向き合うように、大きな鏡があり、その間にさらに鏡のついた3つの大きな箱が設置されている。そこでは、映像が展示空間の鏡と反映し合う。また、映像内にも撮影された鏡があり、タイトルは反転した文字で表示される。つまり、投影されている映像自体がすでに反転しているということを示しているのだろう。よって、観客は展示空間の鏡に映った映像を見る事が「正しい」世界を見ていることになるのかもしれないが、その映像と鏡の入れ子的構造の内部で映り込む自分を見ていると、正しいというのではなく、すべてが反射にすぎないと思えてくる。

美術における映像作品の見方が、古典的な芸術鑑賞と同じ時間のあり方でなければならないというのではない。むしろ映像は古典的な美術の枠組みを変え、新たな観賞者と作品との対話を生み出すものであろう。映像作品は、展示という環境においても、映像独自の観賞者との対話の方法を探求していくべきである。

さわの作品は私にとって、美術になろうとしている映像作品に思えた。美術を映像にするのではなく、映像を美術にすることにより、展示という美術的空間に適合する。私はきっと、映像を美術にしたいと考えている。それは映像以外を美術と認めないという意味ではなく、映像、特にヴィデオ=電子映像の時間から、美術というものを捉え直していきたいと考えている。

2014.1.24
西山修平

2013年9月24日火曜日

ミン・ウォン「私のなかの私」 @ 資生堂ギャラリー レビュー



ミン・ウォン「私のなかの私」
@ 資生堂ギャラリー
2013年9月10日


ドイツ・ベルリン在住のシンガポール人アーティスト、ミン・ウォン(Ming Wong)の個展
(会期:2013年7月6日(土)から9月22日(日)まで)を見てきた。

以下資生堂ギャラリー解説から
http://group.shiseido.co.jp/gallery/exhibition/past/past2013_03.html

~ ~ ~
1971年、シンガポール生まれのミン・ウォンは、現在、ドイツ・ベルリンを拠点に活動しています。彼は象徴的なワールド・シネマの傑作に、リメイクという手法を通じて自ら入り込み、語り口や脚本、演出技法に新しい解釈を加えることで、オリジナルの映画との差異を際出たせ、人種的・文化的アイデンティティー、ジェンダー、言語、ナショナリティーといった問題に言及したユニークな映像作品を制作しています。
~ ~ ~

彼の作品は、東京都現代美術館でパゾリーニ「テオレマ」を自身が演じる事により再制作する作品を見たのが初めてだった。この元となる「テオレマ」では、5人の大きく異なるキャラクターが登場する。そのため、それらの役を一人が演じ直すことで、その差が明確になり、作品としては楽しみやすいものとなっていた。その作品については、普段辛口の周りの友人たちが、割と好意的にこの作品を論じていたので印象に残っているが、個人的にはあまり好きな作品ではなかった。
シンディー・シャーマンから始まるシュミレーショニズムの文脈で、アジア人男性が西洋人(男性・女性共に)に成りきることで、ナショナリズム、ジェンダーなどの規範、偏見が強くあぶり出されるという手法は、その先駆者である森村泰昌との差があまり見えなかったし、そのシュミレーショニズムという手法自体が、定番化した現代美術的なメソッドとして成立してしまっているように思える。そこではシュミレーショニズムの「模倣することにより、システムに介入し、システムを転覆させる」という本質的な要素は後退し、模倣すること自体が目的になっているように思える。森村との比較であるならば、彼が近年に行っている政治的な言説を映画や歴史的な事件の模倣により再表象する作品、チャップリンの「独裁者」や三嶋由紀夫の市ヶ谷での演説、レーニンの演説などを模倣する作品の方が、彼のアーティストとしての主張を模倣することを通じて、具現化しようとしている所に共感が持てる。
次回の資生堂ギャラリー展示が森村泰昌のベラスケスの作品「ラスメニーナス」をテーマにした新作の展示であることを見ると、企画側ではこの二人の間にある差異と連続性を見出しているのだろう。それは次回の森村泰昌の展示を見ると分かるのだと思う。

さて、今回のミン・ウォンの展示作品についてであるが、日本をテーマに作品制作が行われている。日本映画を3つ、時代劇、現代劇、アニメーションと分類し、その3つのテーマごとに、役を演じるというもの。1つのテーマ、例えば現代劇では、小津安二郎「東京物語」、「麦秋」、成瀬巳喜男「妻として女として」の断片が混ざり合って進行する。時代劇では「雪之丞変化」ほか、現代劇は、アニメは「新世紀エヴァンゲリオン」である。
ミンは映像に現れるほとんどの人物を演じる。例えば、2人が同時に出る時はクロマキー合成をつかって、二人を作者一人が同時に演じるということになる。
展示空間には3面のスクリーンがあり、正面のスクリーンではその合成された作者が演じる映画の映像が投影される。左右のスクリーンでは、その制作風景、クロマキー合成用にグリーンバックで撮影される所やメイクの様子などが映し出されて、正面のスクリーンが合成された映像であることを明らかにする。

今回の作品も手法は明確であり、結果も明確である。登場人物はミンがなり替わり、セリフもミンが日本語で発話する。ただ僕には、この手法を忠実に守って作った、作品がまったく面白くない。方法と結果としての作品が、明快につながっているということが、現代美術における評価の大きなポイントなのだろうが、私にとってはその明快さは、作品として予定調和のように思え、全く面白味が感じられない。この作品で行われる、いわゆる舞台裏を同時に見せるということも現代美術の常套手段だ。
もちろん、このシュミレーショニズムという手法によって現れる違和感により、見えてこなかった民族性や文化性などが強く感じられるというのはある。特に今回の作品では、演じているミンがアジア人であり、日本人と外見的には変わらないのに感じられる違和感は、逆に私たちには当たり前になっている日本文化の特異性を大きく意識させる。

ミンの作品の本質はこの違和感にあると思うのだが、本人がインタビューで語っているように、その違和感は彼自身がシンガポール人として生きるにあたって常に抱いてきた感覚にあるのだろう。シンガポールという民族性によってではなく、商業的な機能の為に成立した国家に生まれた国民は、自分たちの文化を、日本人が自らの文化的特徴を単一的に日本的として主張するようにはできない。ミンは、アーティストとしてそのアイデンティティを自覚する時、それが人格の欠如というネガティブなものではなく、その多重人格的なものとしてポジティブに受け入れるのだろう。そして、単一ではないアイデンティティが自覚され、逆にアイデンティティとはそもそも多重であるという主張になる。さらに彼はゲイであり、同時にジェンダーという面からも、性の多様性を主張する。

ミンの作品の主題はこのように解釈できるように思える。
その主張、そしてそれを表現する手段の正当性も理解している。だが、それでも僕は、彼の作品をまったく好きにはなれない。むしろ苛立ちを感じるのだ。彼の作品のコミカルさも、シニカルさも共に苛立つのだ。それはきっと、僕が芸術というものに対して抱く期待と理想と現代美術というものの現状とのギャップに対する苛立ちなのだ。

僕は森村泰昌を特に高く評価しているわけではないが、近年の彼の作品は、模倣すること自体が目的ではなく、模倣を通じて、歴史を再び思考すべき対象として提示しようとしているように思える。そこが彼とコスプレイヤーとの差異であって、コスプレがフィクションへの現状からの逃避なのに対し、森村は過去の歴史の模倣を通じて、現実の世界へ帰還しようとする。


それを前提にミンの作品を考えると、彼の作品は森村と同様に、社会的風習やそれを表出す映画を模倣することにより、違和感を生み出し、現実の世界を批判的に向き合うことを求めている。
さらに彼の作品は、コスプレイヤーのように、模倣すること自体を意図的に目的にしているように見せる事により、逆に主張を表立ってではなく効果的に違和感としてかもし出すことに成功しているようにも思える。
だが、僕には森村の近年の作品には好感を持て、ミンの作品には苛立ちを感じる。果たしてこの差は何なのだろうか??

森村が日本人で、彼がシンガポール人で、僕が日本人だから、森村の方に好感がもてるのか。そんな単純なナショナリズムと人種差別意識を自分の中で探っていると、森村とミンとのナショナリズムというものの差があるように思えてきた。
ミンはシンガポールのマルチカルチャーな状況の中で、その多様性を「肯定」する。森村は日本のモノカルチャーな状況の中で、その単一性を「否定」する。

状況、そして自分自身への肯定と否定。この単純な対立が、僕が現代美術に期待していることを説明しているのかもしれない。現代美術の作品は、自分自身の理解を超えた作品をつくることを目的とはせず、また自分自身を超えた自分自身を向き合うことを目的としない。その作品は、作家と観客がお互いが理解できる範囲で、ルールで行われるゲームだ。だが、芸術とはあえて古臭く言うならば、ルールを破壊することではないか。未だ理解できない価値を、理解できない自分自身を追求することではないのか。
ミンの作品は、すでにルールがあって、それを破らない事が暗黙の了解であることによって楽しむことが保証される、安全なエンターテイメントだ。それは作品の素材として扱う映画やテーマによるのではなく、彼が芸術に求めているものにより、すなわち自己肯定により、作品がエンターテイメントになる。
そして、僕にはそこに自己肯定とその自己に結びついた国家への肯定、ナショナリズム的心情を見る。シンガポールという国への、その国家と結びついた自己への肯定を。

今回の作品を通じて、僕にとって芸術とは何かを改めて考え直す機会になった。(実はいつでもそうなのだけど、特に現代美術の展示を見ると憤りを含めて考える。。)芸術とは、現状の、現在の自分自身に対する否定であり、それだからこそ、未来への希望なのである。僕はまだ見た事がないものを見たい。芸術は未知の世界の為に、未知の世界の表現として、存在すべきなのだ。


2013年9月24日
西山 修平

2013年8月28日水曜日

ノンリニア タイムベースド アート&ヒストリー ビデオアートと美術に関する考察


美術史は、地域性と時代性の持続的発展に基礎づけられている。

ギリシャからローマへ、イタリアからフランス、そしてアメリカへと移動し、ゴシックからルネッサンス、バロックからロマンへ、具体から抽象へと変化するアートの空間的、時間的な変遷。それは、新大陸発見、産業革命など、社会的な事件・変動により歴史的に裏付けられ、美術の歴史となる。
その歴史的背景の中で、非西洋社会の文化・アートは、西洋との出会いという形で美術史に登場する。ジャポニズムとして印象派に関係し、アフリカンアートとしてキュビズムに影響を与える、、、。

このような美術史は、空間・時間が連続する文化、社会を前提に描かれてきた。しかも西欧という一点の視点のみから見られた歴史的展開を考察して。その他のアート歴史は地域の芸術史として、東洋美術史として、日本美術史として、アートとは異なる文化史として整理される。

美術史は基本的には西洋的歴史観、モダニズムの視点に貫かれていて、そこで想定されているのは、唯一の、正しい歴史である。だがポストモダンの登場以後、美術史はその体系的発展の方法を描けていない。現在の作家・作品の方法的、文化的多様な状況において美術史は、歴史としてそれらを秩序づける基準と方法を明らかに見失っている。

古代から現代美術まで連なる美術史をつくるという作業は、様々な作品、作家、美学の影響関係や展開を時代、地域に応じて、結び付けていくということだと言える。
だが現在の作品・作家が無尽蔵に現れていく状況において、アート全体を歴史化しようとするならば、インターネットのように網目状につながる図を、人力でひとつひとつ結び付けていくという作業になるだろう。それはコンピューターが行うデータ解析のような作業になり、たとえその作業を大量に、広範に行うことにより統計的結果を得たとしても、それは歴史として何かを語るものではなくなるだろう。しかも現在では、作品、作家を結びつける視点、切り口も多様、かつ細分化しており、一方の美術史と他方の美術史とがまったく関係せず、かつ両者共に正しいという状況も起き得るだろう。

このような唯一の美術史という物語が破綻している状況と映像芸術、特にビデオアートのアート分野への侵入は、非常に関係性が深いように思える。ビデオカメラの普及により、個人がビデオを作品制作に用いる事ができるようになった時期(70年代後半から80年代前半)とモダニズムとして美術史の行き詰まりはほぼ同じであると言える。

ビデオというメディアが持つ、情報量の豊富さ、方法の多様性は、それまでの美術史の方法によって体系的に分類されることを不可能にする。さらに、ビデオを用いるアーティストそれぞれにおいても、またはひとつの作品の中においても、テーマや手法に多様性がある為、その関係性をひとつの側面から眺め、論じることはできない。ビデオは、それまでの芸術が語られたように、そのテーマや方法、地域により流派やグループなどにまとめ、時系列ごとに比較することはできない。

美術史において主に論じられてきた絵画、彫刻などの芸術作品と比較して、ビデオ作品の大きな特徴は、時間軸を持つことである。ビデオ作品は、時間の経過とともに様々に展開し、ひとつの手法や構図といったひとつの固定的な特徴を持たない。また、ビデオはその表示される機材、例えばモニターやプロジェクターの種類、機能などにより、まったく異なる色彩や解像度を示し、その作品自体がそもそも固定的な形態、色彩を持つことができない。
そこでは、絵画、彫刻という古典的な芸術や同じ映像である写真がされてきたような構図や色彩などの作品がもつ固有な手段を分析し、比較することはできない。ビデオ作品においては、その時間軸における展開を体験し、考察しなければならない。そこでは、それまでの美術史がしてきた作品・作家がもつ固定的な要素を比較し、直線的に結び付けるという方法は不可能である。

ビデオアートは美術史おいて、パフォーマンスアートやコンセプチャルアートなどとともに、現代美術の概念を広げるものとして登場している。だが、ビデオに対する考察は、これまで述べられてきたような現代美術の周辺にある一つのジャンルとしてではなく、美術史ひいては歴史そのものの在り方自体に疑問を投げかける。
ビデオというメディアは、モダニズムの歴史をそのままつなぐものとしてではなく、その歴史そのもののあり方を変更するが故に、美術史の歴史に登場することになるのだと考える。

ビデオについての考察から新たな美術史をつくることは、いままでの美術史の方法の限界を明らかにし、地理的、時間的持続を前提としない歴史の可能性を提示することである。ビデオ作品は、「複製可能」というメディアの特徴から、オリジナル/コピーという体験の差はなく、それらは時間的・空間的制約を超えて拡がっていく。そこでは、個人と作品が地域性と時代性を超えて結びつき、ビデオ作品を見るという体験を通じて、その作品自体がもつ影響力によって、結び付けられていく。それは作品と個人とが地理的、時間的制約を越えて影響し合う関係性である。

現代社会では、テレビやインターネットなどによる視覚・映像情報を通じ、離れた空間・時間が結びつく。アートは美術館やギャラリーといった限定的な空間・時間によってのみ観賞されるのではない。ビデオアートを通じて新たに美術史を作りだすということは、現代の状況に即した美術史をつくることであるが、現在のコンテンポラリーアートの全てを否定し、美術史の現代部分にビデオアートを置き替えることを目的にするのでもない。ビデオアートは、現代のアートのヒエラルキーを改編するためではなく、これまでの地域性、時間制の持続を前提としてきたアートの歴史全てを再検討するのである。
それは、ビデオというメディアを通じて、人間が世界をどのように知覚してきたかを新たに問い直すことである。いままでの、知覚的な常識、主体/客体、持続的な空間・時間というものが、ビデオのメディア性の考察を通じて、美術の歴史だけにとどまらず、人間の知覚の本質が新たに問われるのである。

現代社会の現実では、現実と情報の境界は曖昧である。そこでは、電子映像と同じノンリニアな世界が現実に広がっている。私たちはビデオを見るように、現実世界を知覚し、ビデオを制作するように社会をつくり出すことができる。私たちは、撮影し、編集し、それを見ることを通じて、社会に現実的にかかわる。映像芸術とは、個人が、現代の歴史に関わる手段でもあり、その場所ではないだろうか。ビデオとは世界に対する考察であると同時に、その表現である。

2013年8月19日月曜日

自己紹介の肩書は“アーティスト”で


ブログの自己紹介で自分の肩書を、いつもは映像作家やビデオアーティストにしていますが、今回から“アーティスト”にしました。

いまだに自分がアーティストだと言うのには、なんだかとても違和感がある。僕が自分のことをそう言うのは、一般的に、実用的価値とは関係ない、なんだかよく分からないものがアートと呼ばれ、それを作っている人がアーティストと呼ばれているからだ。絵が上手とか、アートという世界が好きだとか、天才的な技術があるからではない。ただ僕は、僕が感じて、考えていることを伝える決まった方法がないので、なんとかそれを創り出して、人に伝えようとしているだけだ。

だから、僕はいわゆる「アート」というものを作ろうと思ったことは、一度もない。僕にとってのアートとは、僕にしか考えられないことを、僕にしかできない方法で、かたちにすること。答えがあるものを、技術によって、作り出すということではない。作る前に、自分がつくるものを知っているということがない。僕はいつも、自分自身が理解しきれないことを理解しようと、なんとかかたちにしようとしている。

見たことがないものを、知りたい、理解したいという好奇心と、自分しか知らないものを、自分だけが創り出すことができるんだという自尊心とが混ざり合った、不思議な興奮が、自分を作品として他者に向けて表そうとする。そこには、僕の作品でしか、僕のことは伝えることができないのだという思いがある。

だから、僕は自分自身についていくら話をしてみても、本当に自分の感じていることを伝えられているとは思っていない。むしろ誤解でもいいから、なんとか相手が自分について、納得してくれればいいと思う。そもそも理解してもらうことなんて、できないのだから。

コミュニケーションとは、自己と他者との必然的な認識のずれによって、生み出されるのだと思う。それは、お互いの意思が完全に通じ合うことがないということにより、永遠に続けられる。

だが、コミュニケーションは、ただ同じことを繰り返すために行われるのではない。それは本質的に、お互いを理解しあうという目的を持っている。だが、その目的は永遠に達成されることはないとしても。

僕は“アーティスト”という肩書で自分を知ってもらおうと思っています。
それが、自分にとって現実的に利益のある誤解を与えられると考えるからです。

西山

2013年8月13日火曜日

「午前3時の子どもたち」 2013/8/10


「午前3時の子どもたち」
作者:柳生二千翔(女の子には内緒)会場:STスポット(横浜)日時:2013/8/10

現在制作中の新作シングルチャンネルに出演していただいている堀井綾香さん主演の舞台「午前3時の子どもたち」(柳生二千翔、女の子には内緒)@STスポット(横浜)を見た。映像と演劇を舞台上で融合するという野心的な企画を旗揚げ公演から行うということ。

内容は、大人になれない“子どもたち”という大人たちによる、3つの異なる役によるストーリーが同時に展開する。そこには、共通して父親から幼少時に暴力を受けてきたことの影響が語られ、それらが舞台正面壁面に投影される映像と共に、未来に対する漠然とした不安、そこからなんとか自分自身を変えようと苦悩する姿が演じられる。

堀井さんは大学卒業を前にした旅館の娘として主役。かわいいけど、どこか意志が強そうな役は堀井さんのイメージに合っていると思う。冒頭から自分について猛烈に話すのだが、口が先に話すから言葉が追いつこうとする、脳と声の順序が反転しているような話し方は妙なリアリティーがあっておもしろい。演劇と映画の話し方の中間のような、ここでいながら意識はここにいないような話し方は意図的ならば、なかなかすごい。

舞台全体としては、3つの特徴があったと思う。テーマ的には2つ、(1)ここ、現在から異なるところへ行こう、なろうとする決断、(2)父親から息子・娘への暴力。また技法的には、(3)演劇と映像の融合という3つである。

映像と演劇の融合という点では、シンプルだがいくつか興味深い演出が見れた。妊娠したことが妻から夫へ告白する場面では、同内容の映像と演劇を同時に進行させることにより、現実の役者とと映像・音声の役者が二重化される。そこでは、単に情報が2倍になるというのではなく、映画的時間と演劇的時間が同時に進行し、また未来と現在、過去と未来という時間軸のずれが並行することにより、夫婦それぞれが別々に抱え、お互いに知りあえていない記憶や感情が同時に現れる。それは、演劇というリアルな空間において、近くにいながら理解しあえていない個人の世界を表現していた。
だが、映像作家としてみると、全体として映画は演劇の背後にあって、演出的な映像としての用い方を超えていない。もっと、映像を主体として、舞台に働きかけるような、映画と演劇が反転するような演出があってもよかったと思う。

テーマに関しては、それぞれのシーンでDVについて語られる際に、DVを行う親が「お前の為に」という言葉を使って自分の行為を正当化する。そして、子どもが大人になって、自分の意思を主張しようとする時に自らが受けてきた暴力と同じ手段によって行おうとしてしまう。そのそれぞれが抱え込んだトラウマを、相手に打ち明けることを通じて、未来へ向かっていこうとする。

現状を自らの意思によって変えるということが、家族関係でのトラウマや家庭環境からの脱出ということであるのは、作者の年齢的な若さから得られるリアリティなのかもしれない。それらが政治や社会状況との関係ではなく、個人的な世界の脱出として描かれているのは、現代的な流行なのかとも思う。
だが、現在において、大人も子どもも誰にも等しく、具体的な未来は見えず、漠然とした不安ばかりだ。そこから何とか、見えないながらも飛び出そうとする姿勢にはもちろん共感はするが、もっとどのように変化しようとしているかとか、具体的に何を変えようとするかということを、作者は表現できるのではないだろうか。

最後の場面、家族で食事をするときに「未来に絶望と敬意を表して」と言って乾杯をして終了する。このとき言われる絶望とは何なのか。その言葉は唐突に出てくるのだが、例えそれがいわゆるオチだとしても、それはあまりに軽い絶望であり、それが未来と言うものが不安に満ちた絶望としか感じられていないと言うことならば、この作品が対象とする世界の狭さを表してしまっているようで残念である。

2013.8.10
西山

2013年8月7日水曜日

ブログをはじめるよ

これからブログを始めて、アート、映像などの作品、展示の感想・批評をアップしていくことにしました。