2014年1月24日金曜日

さわひらき"Under the Box, Beyond the Bounds" レビュー:「映像の時間 - 美術の時間 」 @東京オペラシティ


さわひらき
東京オペラシティ アートギャラリー
2014年1月18日[土]−3月30日
http://www.operacity.jp/ag/exh160/


さわひらきはロンドン在住の映像作家。室内を飛行機が飛ぶ映像作品など、現実にはありえない光景にもかかわらずなぜか親しみを感じさせる(HPから引用)作品で人気。今回は初の美術館での個展。

展示全体を通じ、映像作品が並んでいるが、サウンドはほとんどない。静かで、ゆっくりとした、色の淡い映像がつづく。作品の特徴としては、映像作品の始まりと終わりがない、つまり時間軸がないということがある。観客はいつ見始めても、止めてもよく、もしくはいつまでも見続けてもよいだろう。ある状態が終わりなくに続いていくような感覚は、夢を見ている感覚と比較できるのだろうか。

だが、さわの作品は、本来の夢がもつ不可解さや性的さと比較すると、あまりに理解可能で静的である。別に彼の作品が夢の映像化をテーマにしているのではないのだが、この夢のようなと言われる作品が、本来の夢とはちがう「夢的」なものであることはまず明確にしたい。

彼の作品の夢的な性質は、大きく2つの要素により作られているように思える。
1つは、未来派やシュールレアリズムに似たイメージの使用がある。20世紀初めに活躍した未来派が見た機械と身体の融合の夢。それはある種の素朴さをもって、懐かしいかつての夢を思い起こさせる。またシュールレアリストが追求した深層心理の世界、非論理的なイメージの組み合わせ、特に初期サイレント映画に似たイメージの使用により、記号的に彼の作品は懐かしい「夢的」な外見を得ている。

2つめは、映像というメディアの使用方法である。映像は時間芸術なので、必然的に時間軸を持つ。だが彼の映像作品の多くは、ストーリーはなく、イメージが繰り返すか反復するかにより、時間軸を持たない。映像自体は静止しているのではなく常に変化しながらも、何も展開しない。そこでは、時間が進ます、常にその時間、現在のままである。

古典的な美術と映像作品の鑑賞の違いは、時間の違いである。絵画や彫刻などは、見る時間を観客が決められるのに対し、映像作品は一定の時間を拘束される。より新しい芸術である写真も、観賞の時間は古典的な美術と同じである。映像作品の時間は、同じ時間芸術である音楽や演劇と近いだろう。だが、問題は映像は劇場ではなく、美術館やギャラリーで芸術作品として観賞されるということである。特に、現代は映像を用いた美術作品が非常に多いが、この単純な時間の違いに対する認識が未だ明確にされていないと思う。それは、映像の本質を理解せずに、目新しさだけで作品に映像を取り込もうとする浅はかさの裏返しであると言えるだろう。

さわひろきの作品は、この観賞の時間という観点からは、美術の時間で映像を観賞することを可能にしている作家だと思う。彼の作品は、いつ見始めてもいいし、全部見なくてもいい。見る時間は観客が決める事ができるのである。
その意味で、彼の作品は観客に開かれた作品であると言えるだろう。それは、メディアアートがインタラクティブに、観客と作品との間に双方向性を持たせようとした方法とは違う方法で、映像作品に対して観客が対話をする環境を用意している。

映像が美術化することが、必ずしも映像の本質、映像が持つ力を失うということではない。だが作品と観客との対話は、作品の汲みきれない深さをもってこそ、成立するものである。ただ開かれていたからといっても、そこに観客を引き込む魅力が当然必要である。
私にとって、さわの作品全般は開かれていても、私が時間を忘れるほどに入りこむ魅力を感じなかった。それは彼の映像が、前述のようにあまりに分かりやすい記号的な「夢」のようなものに思えたからだ。だが展示後半にある『Envelop』という作品には関心を持った。
『Envelop』は、縦長に設置された大型スクリーンに向き合うように、大きな鏡があり、その間にさらに鏡のついた3つの大きな箱が設置されている。そこでは、映像が展示空間の鏡と反映し合う。また、映像内にも撮影された鏡があり、タイトルは反転した文字で表示される。つまり、投影されている映像自体がすでに反転しているということを示しているのだろう。よって、観客は展示空間の鏡に映った映像を見る事が「正しい」世界を見ていることになるのかもしれないが、その映像と鏡の入れ子的構造の内部で映り込む自分を見ていると、正しいというのではなく、すべてが反射にすぎないと思えてくる。

美術における映像作品の見方が、古典的な芸術鑑賞と同じ時間のあり方でなければならないというのではない。むしろ映像は古典的な美術の枠組みを変え、新たな観賞者と作品との対話を生み出すものであろう。映像作品は、展示という環境においても、映像独自の観賞者との対話の方法を探求していくべきである。

さわの作品は私にとって、美術になろうとしている映像作品に思えた。美術を映像にするのではなく、映像を美術にすることにより、展示という美術的空間に適合する。私はきっと、映像を美術にしたいと考えている。それは映像以外を美術と認めないという意味ではなく、映像、特にヴィデオ=電子映像の時間から、美術というものを捉え直していきたいと考えている。

2014.1.24
西山修平