2013年8月13日火曜日

「午前3時の子どもたち」 2013/8/10


「午前3時の子どもたち」
作者:柳生二千翔(女の子には内緒)会場:STスポット(横浜)日時:2013/8/10

現在制作中の新作シングルチャンネルに出演していただいている堀井綾香さん主演の舞台「午前3時の子どもたち」(柳生二千翔、女の子には内緒)@STスポット(横浜)を見た。映像と演劇を舞台上で融合するという野心的な企画を旗揚げ公演から行うということ。

内容は、大人になれない“子どもたち”という大人たちによる、3つの異なる役によるストーリーが同時に展開する。そこには、共通して父親から幼少時に暴力を受けてきたことの影響が語られ、それらが舞台正面壁面に投影される映像と共に、未来に対する漠然とした不安、そこからなんとか自分自身を変えようと苦悩する姿が演じられる。

堀井さんは大学卒業を前にした旅館の娘として主役。かわいいけど、どこか意志が強そうな役は堀井さんのイメージに合っていると思う。冒頭から自分について猛烈に話すのだが、口が先に話すから言葉が追いつこうとする、脳と声の順序が反転しているような話し方は妙なリアリティーがあっておもしろい。演劇と映画の話し方の中間のような、ここでいながら意識はここにいないような話し方は意図的ならば、なかなかすごい。

舞台全体としては、3つの特徴があったと思う。テーマ的には2つ、(1)ここ、現在から異なるところへ行こう、なろうとする決断、(2)父親から息子・娘への暴力。また技法的には、(3)演劇と映像の融合という3つである。

映像と演劇の融合という点では、シンプルだがいくつか興味深い演出が見れた。妊娠したことが妻から夫へ告白する場面では、同内容の映像と演劇を同時に進行させることにより、現実の役者とと映像・音声の役者が二重化される。そこでは、単に情報が2倍になるというのではなく、映画的時間と演劇的時間が同時に進行し、また未来と現在、過去と未来という時間軸のずれが並行することにより、夫婦それぞれが別々に抱え、お互いに知りあえていない記憶や感情が同時に現れる。それは、演劇というリアルな空間において、近くにいながら理解しあえていない個人の世界を表現していた。
だが、映像作家としてみると、全体として映画は演劇の背後にあって、演出的な映像としての用い方を超えていない。もっと、映像を主体として、舞台に働きかけるような、映画と演劇が反転するような演出があってもよかったと思う。

テーマに関しては、それぞれのシーンでDVについて語られる際に、DVを行う親が「お前の為に」という言葉を使って自分の行為を正当化する。そして、子どもが大人になって、自分の意思を主張しようとする時に自らが受けてきた暴力と同じ手段によって行おうとしてしまう。そのそれぞれが抱え込んだトラウマを、相手に打ち明けることを通じて、未来へ向かっていこうとする。

現状を自らの意思によって変えるということが、家族関係でのトラウマや家庭環境からの脱出ということであるのは、作者の年齢的な若さから得られるリアリティなのかもしれない。それらが政治や社会状況との関係ではなく、個人的な世界の脱出として描かれているのは、現代的な流行なのかとも思う。
だが、現在において、大人も子どもも誰にも等しく、具体的な未来は見えず、漠然とした不安ばかりだ。そこから何とか、見えないながらも飛び出そうとする姿勢にはもちろん共感はするが、もっとどのように変化しようとしているかとか、具体的に何を変えようとするかということを、作者は表現できるのではないだろうか。

最後の場面、家族で食事をするときに「未来に絶望と敬意を表して」と言って乾杯をして終了する。このとき言われる絶望とは何なのか。その言葉は唐突に出てくるのだが、例えそれがいわゆるオチだとしても、それはあまりに軽い絶望であり、それが未来と言うものが不安に満ちた絶望としか感じられていないと言うことならば、この作品が対象とする世界の狭さを表してしまっているようで残念である。

2013.8.10
西山

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