2013年8月28日水曜日

ノンリニア タイムベースド アート&ヒストリー ビデオアートと美術に関する考察


美術史は、地域性と時代性の持続的発展に基礎づけられている。

ギリシャからローマへ、イタリアからフランス、そしてアメリカへと移動し、ゴシックからルネッサンス、バロックからロマンへ、具体から抽象へと変化するアートの空間的、時間的な変遷。それは、新大陸発見、産業革命など、社会的な事件・変動により歴史的に裏付けられ、美術の歴史となる。
その歴史的背景の中で、非西洋社会の文化・アートは、西洋との出会いという形で美術史に登場する。ジャポニズムとして印象派に関係し、アフリカンアートとしてキュビズムに影響を与える、、、。

このような美術史は、空間・時間が連続する文化、社会を前提に描かれてきた。しかも西欧という一点の視点のみから見られた歴史的展開を考察して。その他のアート歴史は地域の芸術史として、東洋美術史として、日本美術史として、アートとは異なる文化史として整理される。

美術史は基本的には西洋的歴史観、モダニズムの視点に貫かれていて、そこで想定されているのは、唯一の、正しい歴史である。だがポストモダンの登場以後、美術史はその体系的発展の方法を描けていない。現在の作家・作品の方法的、文化的多様な状況において美術史は、歴史としてそれらを秩序づける基準と方法を明らかに見失っている。

古代から現代美術まで連なる美術史をつくるという作業は、様々な作品、作家、美学の影響関係や展開を時代、地域に応じて、結び付けていくということだと言える。
だが現在の作品・作家が無尽蔵に現れていく状況において、アート全体を歴史化しようとするならば、インターネットのように網目状につながる図を、人力でひとつひとつ結び付けていくという作業になるだろう。それはコンピューターが行うデータ解析のような作業になり、たとえその作業を大量に、広範に行うことにより統計的結果を得たとしても、それは歴史として何かを語るものではなくなるだろう。しかも現在では、作品、作家を結びつける視点、切り口も多様、かつ細分化しており、一方の美術史と他方の美術史とがまったく関係せず、かつ両者共に正しいという状況も起き得るだろう。

このような唯一の美術史という物語が破綻している状況と映像芸術、特にビデオアートのアート分野への侵入は、非常に関係性が深いように思える。ビデオカメラの普及により、個人がビデオを作品制作に用いる事ができるようになった時期(70年代後半から80年代前半)とモダニズムとして美術史の行き詰まりはほぼ同じであると言える。

ビデオというメディアが持つ、情報量の豊富さ、方法の多様性は、それまでの美術史の方法によって体系的に分類されることを不可能にする。さらに、ビデオを用いるアーティストそれぞれにおいても、またはひとつの作品の中においても、テーマや手法に多様性がある為、その関係性をひとつの側面から眺め、論じることはできない。ビデオは、それまでの芸術が語られたように、そのテーマや方法、地域により流派やグループなどにまとめ、時系列ごとに比較することはできない。

美術史において主に論じられてきた絵画、彫刻などの芸術作品と比較して、ビデオ作品の大きな特徴は、時間軸を持つことである。ビデオ作品は、時間の経過とともに様々に展開し、ひとつの手法や構図といったひとつの固定的な特徴を持たない。また、ビデオはその表示される機材、例えばモニターやプロジェクターの種類、機能などにより、まったく異なる色彩や解像度を示し、その作品自体がそもそも固定的な形態、色彩を持つことができない。
そこでは、絵画、彫刻という古典的な芸術や同じ映像である写真がされてきたような構図や色彩などの作品がもつ固有な手段を分析し、比較することはできない。ビデオ作品においては、その時間軸における展開を体験し、考察しなければならない。そこでは、それまでの美術史がしてきた作品・作家がもつ固定的な要素を比較し、直線的に結び付けるという方法は不可能である。

ビデオアートは美術史おいて、パフォーマンスアートやコンセプチャルアートなどとともに、現代美術の概念を広げるものとして登場している。だが、ビデオに対する考察は、これまで述べられてきたような現代美術の周辺にある一つのジャンルとしてではなく、美術史ひいては歴史そのものの在り方自体に疑問を投げかける。
ビデオというメディアは、モダニズムの歴史をそのままつなぐものとしてではなく、その歴史そのもののあり方を変更するが故に、美術史の歴史に登場することになるのだと考える。

ビデオについての考察から新たな美術史をつくることは、いままでの美術史の方法の限界を明らかにし、地理的、時間的持続を前提としない歴史の可能性を提示することである。ビデオ作品は、「複製可能」というメディアの特徴から、オリジナル/コピーという体験の差はなく、それらは時間的・空間的制約を超えて拡がっていく。そこでは、個人と作品が地域性と時代性を超えて結びつき、ビデオ作品を見るという体験を通じて、その作品自体がもつ影響力によって、結び付けられていく。それは作品と個人とが地理的、時間的制約を越えて影響し合う関係性である。

現代社会では、テレビやインターネットなどによる視覚・映像情報を通じ、離れた空間・時間が結びつく。アートは美術館やギャラリーといった限定的な空間・時間によってのみ観賞されるのではない。ビデオアートを通じて新たに美術史を作りだすということは、現代の状況に即した美術史をつくることであるが、現在のコンテンポラリーアートの全てを否定し、美術史の現代部分にビデオアートを置き替えることを目的にするのでもない。ビデオアートは、現代のアートのヒエラルキーを改編するためではなく、これまでの地域性、時間制の持続を前提としてきたアートの歴史全てを再検討するのである。
それは、ビデオというメディアを通じて、人間が世界をどのように知覚してきたかを新たに問い直すことである。いままでの、知覚的な常識、主体/客体、持続的な空間・時間というものが、ビデオのメディア性の考察を通じて、美術の歴史だけにとどまらず、人間の知覚の本質が新たに問われるのである。

現代社会の現実では、現実と情報の境界は曖昧である。そこでは、電子映像と同じノンリニアな世界が現実に広がっている。私たちはビデオを見るように、現実世界を知覚し、ビデオを制作するように社会をつくり出すことができる。私たちは、撮影し、編集し、それを見ることを通じて、社会に現実的にかかわる。映像芸術とは、個人が、現代の歴史に関わる手段でもあり、その場所ではないだろうか。ビデオとは世界に対する考察であると同時に、その表現である。

2013年8月19日月曜日

自己紹介の肩書は“アーティスト”で


ブログの自己紹介で自分の肩書を、いつもは映像作家やビデオアーティストにしていますが、今回から“アーティスト”にしました。

いまだに自分がアーティストだと言うのには、なんだかとても違和感がある。僕が自分のことをそう言うのは、一般的に、実用的価値とは関係ない、なんだかよく分からないものがアートと呼ばれ、それを作っている人がアーティストと呼ばれているからだ。絵が上手とか、アートという世界が好きだとか、天才的な技術があるからではない。ただ僕は、僕が感じて、考えていることを伝える決まった方法がないので、なんとかそれを創り出して、人に伝えようとしているだけだ。

だから、僕はいわゆる「アート」というものを作ろうと思ったことは、一度もない。僕にとってのアートとは、僕にしか考えられないことを、僕にしかできない方法で、かたちにすること。答えがあるものを、技術によって、作り出すということではない。作る前に、自分がつくるものを知っているということがない。僕はいつも、自分自身が理解しきれないことを理解しようと、なんとかかたちにしようとしている。

見たことがないものを、知りたい、理解したいという好奇心と、自分しか知らないものを、自分だけが創り出すことができるんだという自尊心とが混ざり合った、不思議な興奮が、自分を作品として他者に向けて表そうとする。そこには、僕の作品でしか、僕のことは伝えることができないのだという思いがある。

だから、僕は自分自身についていくら話をしてみても、本当に自分の感じていることを伝えられているとは思っていない。むしろ誤解でもいいから、なんとか相手が自分について、納得してくれればいいと思う。そもそも理解してもらうことなんて、できないのだから。

コミュニケーションとは、自己と他者との必然的な認識のずれによって、生み出されるのだと思う。それは、お互いの意思が完全に通じ合うことがないということにより、永遠に続けられる。

だが、コミュニケーションは、ただ同じことを繰り返すために行われるのではない。それは本質的に、お互いを理解しあうという目的を持っている。だが、その目的は永遠に達成されることはないとしても。

僕は“アーティスト”という肩書で自分を知ってもらおうと思っています。
それが、自分にとって現実的に利益のある誤解を与えられると考えるからです。

西山

2013年8月13日火曜日

「午前3時の子どもたち」 2013/8/10


「午前3時の子どもたち」
作者:柳生二千翔(女の子には内緒)会場:STスポット(横浜)日時:2013/8/10

現在制作中の新作シングルチャンネルに出演していただいている堀井綾香さん主演の舞台「午前3時の子どもたち」(柳生二千翔、女の子には内緒)@STスポット(横浜)を見た。映像と演劇を舞台上で融合するという野心的な企画を旗揚げ公演から行うということ。

内容は、大人になれない“子どもたち”という大人たちによる、3つの異なる役によるストーリーが同時に展開する。そこには、共通して父親から幼少時に暴力を受けてきたことの影響が語られ、それらが舞台正面壁面に投影される映像と共に、未来に対する漠然とした不安、そこからなんとか自分自身を変えようと苦悩する姿が演じられる。

堀井さんは大学卒業を前にした旅館の娘として主役。かわいいけど、どこか意志が強そうな役は堀井さんのイメージに合っていると思う。冒頭から自分について猛烈に話すのだが、口が先に話すから言葉が追いつこうとする、脳と声の順序が反転しているような話し方は妙なリアリティーがあっておもしろい。演劇と映画の話し方の中間のような、ここでいながら意識はここにいないような話し方は意図的ならば、なかなかすごい。

舞台全体としては、3つの特徴があったと思う。テーマ的には2つ、(1)ここ、現在から異なるところへ行こう、なろうとする決断、(2)父親から息子・娘への暴力。また技法的には、(3)演劇と映像の融合という3つである。

映像と演劇の融合という点では、シンプルだがいくつか興味深い演出が見れた。妊娠したことが妻から夫へ告白する場面では、同内容の映像と演劇を同時に進行させることにより、現実の役者とと映像・音声の役者が二重化される。そこでは、単に情報が2倍になるというのではなく、映画的時間と演劇的時間が同時に進行し、また未来と現在、過去と未来という時間軸のずれが並行することにより、夫婦それぞれが別々に抱え、お互いに知りあえていない記憶や感情が同時に現れる。それは、演劇というリアルな空間において、近くにいながら理解しあえていない個人の世界を表現していた。
だが、映像作家としてみると、全体として映画は演劇の背後にあって、演出的な映像としての用い方を超えていない。もっと、映像を主体として、舞台に働きかけるような、映画と演劇が反転するような演出があってもよかったと思う。

テーマに関しては、それぞれのシーンでDVについて語られる際に、DVを行う親が「お前の為に」という言葉を使って自分の行為を正当化する。そして、子どもが大人になって、自分の意思を主張しようとする時に自らが受けてきた暴力と同じ手段によって行おうとしてしまう。そのそれぞれが抱え込んだトラウマを、相手に打ち明けることを通じて、未来へ向かっていこうとする。

現状を自らの意思によって変えるということが、家族関係でのトラウマや家庭環境からの脱出ということであるのは、作者の年齢的な若さから得られるリアリティなのかもしれない。それらが政治や社会状況との関係ではなく、個人的な世界の脱出として描かれているのは、現代的な流行なのかとも思う。
だが、現在において、大人も子どもも誰にも等しく、具体的な未来は見えず、漠然とした不安ばかりだ。そこから何とか、見えないながらも飛び出そうとする姿勢にはもちろん共感はするが、もっとどのように変化しようとしているかとか、具体的に何を変えようとするかということを、作者は表現できるのではないだろうか。

最後の場面、家族で食事をするときに「未来に絶望と敬意を表して」と言って乾杯をして終了する。このとき言われる絶望とは何なのか。その言葉は唐突に出てくるのだが、例えそれがいわゆるオチだとしても、それはあまりに軽い絶望であり、それが未来と言うものが不安に満ちた絶望としか感じられていないと言うことならば、この作品が対象とする世界の狭さを表してしまっているようで残念である。

2013.8.10
西山

2013年8月7日水曜日

ブログをはじめるよ

これからブログを始めて、アート、映像などの作品、展示の感想・批評をアップしていくことにしました。